代表取締役 清田 顕彦

昭和48年1月生まれのAB型
家族:妻、長女、次女、長男
趣味:官足法、腸活
音楽:BOØWY、長渕剛、男闘呼組
座右の銘:苦難は幸福の門
わたしたち「尼屋株式会社」は、開業45年の地域にしっかり根付いた保険代理店です。
生まれ育った湘南平塚の地、父が開業した仕事を長男の私が受け継ぎました。親子2代にわたり、みなさまの保険えらびをお手伝いさせていただいております。
創業から変わらない想いは「徹底的にお客さま目線」であること。
単に保険商品を勧めるのでなく、お客さまにどんな危険があるのか、いざというとき本当に役に立つのか、保険料は無理なく支払えるか等を考え、一生懸命にプランニングをしています。
小さな会社ですが、一切妥協をせず、大企業にも負けない提案力とサービスの確保に努めております。
保険は難しい、と後回しにせず、お気軽にご相談ください。正直にまじめに、みなさまの家族になったつもりで親身にサポートいたします。
経歴
1985年3月 平塚市立松延小学校卒業
1988年3月 平塚市立金旭中学校卒業
1991年3月 神奈川県立大磯高等学校卒業
1995年3月 青山学院大学法学部 私法学科卒業(会社法 関英昭ゼミ所属)
1995年4月 安田火災海上保険株式会社入社(新卒フロンティア27期生)
1998年4月 代理店として独立開業
2008年4月 尼屋株式会社(株式会社アマヤ) 代表取締役に就任
清田 恒顕

昭和19年11月生まれのA型
ウォーキング、ゴルフ
保険選びは、人生をも左右する大事な意思決定といえます。
最近は、ネットの比較サイトなどで保険を選ぶ方も多いですが、専門家に相談せず全て自分で決めてしまうと、「いざというときに保険がおりない」こともあります。また、保険は入って終わりではなく、環境変化に合わせてメンテナンスも極めて重要な商品です。
保険で損をしたくない方、余計な時間をかけたくない方は、信頼のできる代理店に相談するのが、安心確実な方法といえます。
当社は日本代協の加盟代理店、地元で長く営業しております。どうぞ安心してご相談いただければと思います。
経歴
神奈川県立平塚江南高等学校
慶應義塾大学法学部卒業
神奈川県PTA協議会会長
神奈川の教育を推進する県民会議代表
平塚市教育委員長
平塚南ロータリークラブ会長 等歴任
清田 けい子

昭和23年8月生まれのB型
絵手紙、つるし雛づくり、ゴルフ
当社は家族経営、アットホームな雰囲気でお客さまとの距離が近く、中には40年来と長いお付き合いの方もいらっしゃいます。
スタッフ一同、「まごころでサービス」をモットーにお客さまにやさしく寄り添います。どうぞお気軽にお問い合わせください。
経歴
平塚法人会女性部会会員等
あまっぴ

幸せの青い鳥「おおるり」をイメージした、尼屋株式会社のマスコットキャラクターです。
誕生日:8月1日
特技:晴れの日に傘をさす

社会貢献活動
尼屋株式会社は、日本代協および神奈川代協の加盟代理店です。
日本代協(一般社団法人日本損害保険代理業協会)と神奈川代協(一般社団法人神奈川県損害保険代理業協会)とは、損害保険の普及と、保険契約者及び一般消費者の利益保護を図るために、損害保険代理店の資質を高め、業務の適正な運営、損害保険事業の健全な発展に寄与すると共に、幅広く社会に貢献するための活動を行う事を目的とした組織です。
代表の清田顕彦は、神奈川代協で理事(副会長・企画環境委員長)を務めています。
自己の研鑽を怠ることなく常に向上心を保ち、すべての保険代理店の範となるよう努力し、社会的地位の向上を目指して活動を続けています。
これまでの歩み
尼屋(あまや)ものがたり
平塚市を流れる相模川の河口に、須賀(すか)という地域があります。
須賀では、はるか昔から漁猟がおこなわれており、住んでいた人々は獲れた魚や貝を干物に加工して、山間の人達と物々交換をしていたと言われています。



小田原北条氏が栄えていた頃(1495~1590)、摂津の国(兵庫県の一部)尼崎から須賀の地に移り住んだと言われる清田家先祖(清田伊八)は、尼崎が出身地であることから故郷をしのぶ縁として、屋号を「尼屋(あまや)」と名付けたと言われています。
清田家に代々伝わる古文書(小田原北条氏の印判状6通)は、昭和37年2月8日に平塚市の重要文化財に指定されましたが、古文書の内容から判断すると、清田家は廻船問屋・干鰯(にしん、いわし等の乾燥肥料)商を営む須賀の有力者で、小田原北条氏が支配していた時代には、須賀の小代官をつとめていたと考えられています。
小田原北条時代の須賀港は伝馬制の宿駅に相当する「浦」のひとつで、当時は物資などを浦から浦へ船送りする制度である、海上交通のための「浦伝制(うらづたい)」がありました。
このため北条氏にとって須賀の港は直轄地となっていたものと思われ、小代官・代官等をもってこの地を管掌させていたようです。また、相模川上流の木材が筏士(いかだし)によって須賀まで運ばれ、小田原本城や鎌倉の寺社建築の用材として各地に送られていきました。


家紋(ロゴマーク)のこと
鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代に小田原城を本拠とした「後北条氏」、同じ一族かと思いきや、血縁関係は無いと言われています。
鎌倉時代の執権、北条氏が家紋に「三つ鱗(みつうろこ)」を使いはじめた由来は、江の島にあるとされています。
北条政子の父である北条時政が、江ノ島弁財天に子孫の繁栄を祈願していました。
祈り続けていたある夜のこと、北条時政の目の前に神秘的な衣をまとった美女(弁財天)が突然目の前に現れました。そして、厳かな声で北条家の未来についてお告げをしたそうです。
「あなたの前世は箱根の法師です。修行して徳を積み、この世に生まれ変わりました。素晴らしい前世を持つあなたの子孫は、末永く日本の主となって繁栄することでしょう。しかし、正しい行いをしなければ、七代以上は続きませんよ。」
弁財天はお告げの後、大蛇(龍)に変身し、海中へと消えていったそうですが、その後ろに三枚の鱗を残していったそうです。
そして北条時政は「所願成就した」と喜び、残された三枚の鱗を家紋に使用することにしました。このようにして、北条家の家紋は「三つ鱗」となったといわれています。
鎌倉時代の北条氏と後北条氏の家紋の違いとしては、前者が正三角形を組み合わせた「三つ鱗」であるのに対し、後北条氏は二等辺三角形を組み合わせた「三つ鱗」を使用しているところにあります。

北条鱗とも呼ばれています
戦国時代の北条氏は、家紋をはじめ執権時代の北条氏の模倣ばかりをしていますが、関東地方で100年ほどの力を持っていたことを考えると、名門一族の名、いわばネームバリューを利用したことは、権威を示すための賢い選択だったのではと感じます。今でいうイメージ戦略です。

旧ロゴマーク。
ロゴマークの意味

尼屋のコーポレートカラー「青」は信頼と誠実を表現しています。
北条氏の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」をモチーフに、アルファベット“AMAYA”を織り交ぜ、三角形には、「買い手よし」「売り手よし」「世間よし」という近江商人の経営哲学「三方よし」の理念をこめています。
中央には日の丸をあしらい、仕事を通して人々のお役に立ち続けることで、地域社会への貢献、ひいては、美しい日本の創生につながるという志をイメージしています。
所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!
2019年5月17日放送 20:54 – 21:54 テレビ東京






